『泉布観』 は日本初の本格的な造幣工場 「大阪造幣寮」 の迎賓館です。 明治政府が成立して近代国家への一歩を踏み出したものの、国家の根幹となる 貨幣制度は大混乱!さまざまな通貨や、偽造通貨までが出回る始末でした。 明治政府にとって統一貨幣の造幣工場建設は、目下の急務だったのです。 この重要で巨大な国家プロジェクトを成功に導いたのは、なんと若干28歳! イギリス出身の建築技師 トーマス・J・ウォートルスでした。 西洋文化に憧れる明治政府の ”御雇外国人” として 「一山当てよう!」 と渡来・・・ いやいや、新開地を渡り歩く 「流しの仕事人」 として渡来しました。 幕末から明治初期に、西洋館建設ラッシュの中心的な役割を担った人物です。 ウォートルスは、自分の肩書きを建築家ではなく 『Surveyor』 と名乗りました。 ヨーロッパ諸国のアジアの植民地支配が進んだ時代に、新開地を渡り歩きながら、 土地の管理から土木工事、設計建築、さらには資材調達に至るまで・・・ 建築工事の一切を手がけていたのが 『Surveyor(=総合建設技師)』 でした。 西洋人が羨望の眼差しで見られた時代とはいえ、母国から遠く離れた異国の地を 腕一本で渡り歩く 「流しの仕事人」 としてのプライドからかもしれません。 明治五年(1872年)には、大火で焼失した ”銀座の街” の再興を全権委任され、 ウォートルスの最高傑作とも言われる 「銀座煉瓦街」 を設計しました。 日本人の建築に対する視野を広げて審美眼を肥やし、軍事工場や産業施設など、 欧米に匹敵する街並みの基盤をつくったのが ウォートルスでした。 ところが明治政府は、西洋文化の 本格的な美術的建築 を望むようになります。 政府官僚の海外視察や、ヨーロッパ諸国から本格的な 『建築家』 の招聘が始まると、 ウォートルスを明治八年(1875年)に解雇してしまいます。 「流しの仕事人」 ウォートルスの粗野な意匠やデザイン様式が実は時代遅れであり、 デザイン理解が曖昧であると次第に捉えられていったのです。 ウォートルスは明治十年(1877年)には日本を離れ、上海租界やアメリカに移って 新開地の仕事人らしい活躍を続けたのち、異国の地で亡くなります。 急速な時代の流れや実力主義の世界とはいえ、日本という遠く離れた異国の地で 便利に扱われている 最近の ”外国人労働者” のことが頭を過ぎりました。 ウォートルスや外国人労働者の方々は、始めからこれほど安易な結末を予測し、 割り切って働いていたでしょうか?恨むことなく日本を離れられるでしょうか? ~参考文献 『日本の近代建築(上)―幕末・明治篇―』
by hi_nana3
| 2009-04-06 10:33
| ■ 日々の日本
|
Profile
ブログパーツ カテゴリ 全体■ ご挨拶 ■ Homestay 1日目 ├ 2日目 ├ 3日目 ├ 4日目 ├ 5日目 ├ 6日目 ├ 7日目 ├ 8日目 ├ 帰国したその後 └ Homestay Korea ★BlogKorea!Camp! ★Jeju Supporters! ■11’ 秋の旅 ■11’ 新春の旅 ■10’ 秋の旅 ■10’ 初夏の旅 ■09’ 秋の旅 ■09’ 春の旅 ■07’ 秋の旅 ■05’ 秋の旅 ------------- ■ おうちで韓食 ■ おそとで韓食 ------------- ■ 日々の韓国 ■ 日々の日本 ------------- ∵ ラブ 手仕事 ∞ 2坪の畑だより ▲ 富士山登山への道 ♀ 10㎞走る女子 以前の記事 2012年 06月2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 more... ライフログ
検索
その他のジャンル ファン 記事ランキング ブログジャンル
画像一覧 | |||||||
ファン申請 |
||